ボサボサ頭と近自然

スイス連邦チューリヒ州シュテルネンベルクのフォレスター、ロルフ・シュトリッカー氏による「近自然森づくり」ワークショップに参加したのは6月末のこと。以来、どこかで報告的な事を書こうと思いつつ、なかなか思いつかず、結局自分のブログを開いてそこで発表するということにしてしまった。

ブログ開設からさらに2ヶ月、ようやく記事として少しずつ書いていくことにしたい。

ロルフのワークショップが日本ではじめて開催されたはのは2010年、長野県大町市の荒山林業地でのこと。私もその場に参加し、私の恩師である荒山雅行氏との「選木バトル」に立ち会った。私は当時すでに荒山林業の従業員では無く、山仕事創造舎も荒山林業の手伝いをやめていた。それでも、荒山林業で開催されるイベントにはよく呼ばれていたし、雅行さんが不在のときに案内役をするなど、かかわりは続いていた。「近自然森づくり」と荒山林業をつないだのは私では無いが、つながるきっかけになった人を荒山さんに紹介したのは私だった。

ロルフ夫妻は、荒山雅行さんが亡くなった後に一度荒山林業地を訪れたことがあり、私もそこで再会している。ただそのときは現場には行けず会食を共にしただけだった。

荒山林業は近自然的と言われてはいるが「近自然森づくり」を目指しているわけではないし、モデル施業地でもない。ただ初めてのロルフのワークショップ以来総合農林の佐藤社長とはずっと交流があり、その縁で近自然森づくり研究会のメンバーにもなっている。でもあまりアクティブとは言えず、近自然森づくり協会の主催で毎年行われてきたスイスフォレスターワークショップにも、いままで参加してこなかった。だから、スイス林業とか近自然森づくりについては実際ほとんど知らないと言っても良い。

今回8年ぶりに参加することを決めたのは、そろそろ「自分の言葉」で森林づくりについて発信し始めても良いかなと思うようになったからだ。かつて荒山雅行さんに学び荒山林業地の案内役をやりながら、本業として山仕事創造舎という林業事業体の代表をつとめているけれど、自分の言葉で森林づくりについて語るということは実際ほとんどやったことがない。荒山林業はこうだったとか、山仕事創造舎ではこう考えるという事を、語っているのは香山由人ではあるが、香山由人の森林づくりの考えを直接明らかにしたことは無いのだ。

これから書くことがどこまで「自分の言葉」なのか、たぶん自分自身では評価できないのだが、誰かの評価を待っていても仕方ないので書き始めることにしよう。

「近自然森づくり」”natur nahe Waldbau”という言葉が日本に最初に紹介されたときに、しばしば目についたのは、「陽光林」”lichter Wald”という言葉だった。

「近自然森づくり」では、原則として天然更新を推奨するので、更新樹が高木に育つためには充分な光が必要になる。しかも皆伐はしないの原則だから、上層木を強度に伐採して極めて明るい環境をつくり、そこを更新の場所にするということになる。

原生的な自然林での更新は、倒木更新が中心になると言われている。巨大な老木が倒れることで、そこで生まれたギャップが更新の場所となり、若い樹木が育つ。

これを自然の倒木を待つのではなく、意図的な抜き伐りによって促進する。人為的な施業を通じて、森林の多層構造を創りだす。木材を生産しながら同時に森林を育成し天然更新をはかろうというのが「近自然森づくり」の求める森林のカタチ「陽光林」だ。

こうして、スイスの「近自然森づくり」=「天然更新できる陽光林」というイメージが出来上がり、一方でそんな事は日本では無理だという言説も生まれていったような気がする。

しかし、今回のロルフのワークショップでは「陽光林」”lichter Wald”という言葉はあまり語られなかった。森林づくりで重要な事は「光」”licht”のコントロールであるとは言っていたが、森林の姿として一定のカタチについてはあまり語らない。

ロルフが繰り返し強調していたのは「安定性」”stabilität”という言葉であった。全ては「安定」を基準として考えられる。例えば「多様性」を重視するのは、単純な森林は災害に対してリスクが高く不安定だからという簡潔な理由だ。

森林施業は安定性の維持と向上のために行われるべきであり、それが最も低コストで収益が高い方法だとされる。例えば手間をかけて品質の良い木を育てても災害で倒れてしまえば、育てたコストが無駄になる。だから品質よりも安定が重視される。もちろん安定した木が結果的に高品質である可能性はあるけれども、あくまで目指すことは安定なのだ。

スイス近自然学研究所代表の山脇正駿さんによれば「近自然」という考え方の基本は「人間が生き延びる」ことにある。人間が滅んだ後に自然が残れば良いというのではない。そのために最も確実で効率が良いのは、自然の力をできるだけ活かすこと、という判断から、自然に近い在り方を人間の活動に取り入れようとしてきた。

自然に対する信頼が基本にあり、そこから人間の生存の道を見つけ出すという思想が、特に「森づくり」おいては森林の「安定性」を重視するという考え方につながっているように思える。

そこで私は、スギの大木のある現場での選木ワークショプで、わずかに傾いた大木を選んで、この木は倒れるかもしれないから伐ることにしたいと言ってみた。去年の台風でカラマツの大木が何本も倒れて以来、私には大木は倒れるかもしれないというイメージができているのだ。

ロルフの講評は、この木が倒れる可能性は低いと思うが、お金にするために伐るという選択はある、というものだった。

スイスのフォレスターは森林では絶対権力者だ。フォレスターの選木でなければ例え山主であっても木を伐ることは許されない。そのかわり、フォレスターは担当する森林の経営についても責任を持っている。つまり赤字経営を続けるようなら首になってしまうのだ。だから伐ってお金にすることを意識した選木も常に心がけている。

それぞれの木の価値、全体としての森林として価値の最大化を意識し、なるべく伐らない、少なくとも金のために木を伐ることはしない。一本いっぽんの木をよく観察し、弱った木や将来性の無い木をを抜き伐りしながらかろうじて収入を得てきた荒山林業の経営。ロルフとの選木バトルのときもその経営姿勢の違いが浮き彫りになった。オーナーとフォレスターの立場の違いと当時は説明され、オーナーの意思を尊重するとロルフは語っていた。

今私は倒れてしまった木をどうやって売ってお金にするかという事に悩みながらさまざまな試行を続けている。伐ることで経営を安定させるという選択は難しかった。なぜなら例えどんなに良い木を伐っても、たいしたお金にはならないという現実があったからだ。

安定性を最も重視すると言われても、そもそも不安定な地面の上で、ただ植物の勢いは凄まじいばかり。そんな森林では様々な変化に追いつくのがやっと、どちらかと言えば受け身の森林づくりを考えてきた私。「安定性」”stabilität”と何度言われても気持ちが落ち着かない。

今回、講義やフィールドでの説明を聴きながら私はひたすらメモをとった。ふだんは聞き流しながら必要な事をメモする程度。書かない方が記憶に残るというのが私の流儀なのだ。だが私は今回の講習では学生時代の哲学の講義以来、とにかく一言一句逃すことのないようにメモをした。ドイツ語から日本語への通訳時間がメモをとるには都合が良かったけれど、できる限りキーワード的な言葉については一知半解のままドイツ語で書きとった。(一応第一外国語はドイツ語なのです)

目標とする森林について「安定」という「概念」ではなく、もう少し目に見えるカタチ的な「目標林型」的な表現がどこかにあったはず。家に帰ってからメモを探して見つけたのは。stufiger Wald という言葉だった。山脇さんは「ギザギザな森」と訳していた。

“stufiger Wald” 日本語にすれば「不揃いな森」というような意味であろうか。

でもドイツ語的にはstfigerは悪い印象の言葉では無いようだ。

stufigerという言葉をそのままgoogleで検索してみる。

stufiger google 画像検索

stufiger bob という髪型のことらしい。

一見して寝ぐせボサボサ風だけど、こんな髪型をデザインしてカットし維持して行くのは結構難しい。センスと技術が求められそうだ。

念の為 stufiger wald で検索してみる。

stfiger wald goole検索

いかにも近自然的で多様な森林。だが、写真は撮影の都合か林縁が多い。林内に入ってしまうとうまく写真では表現できないかもしれない。

「人間が生き残るための森づくり」と、ボサボサでおしゃれな髪型。

迷路への最初の一歩としてはなかなか良い表現だな。

2017年9月18日

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